コラム『所長の眼鏡』
恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか!2016.02.01
戦国の乱世を生きた真田信繁(俗称は幸村)。今年の大河ドラマは彼の生涯を描いた「真田丸」です。 私も彼の大ファンですが、彼の魅力は私利私欲ではなく、恩や義を大切にする“武士道”をとことん貫く姿勢にあるのでしょう。
結果は、西軍は味方の裏切りにより敗北。東軍で活躍した信之の助命嘆願により、昌幸、幸村父子は高野山麓の九度山へ追放となります。 昌幸は65歳で没しましたが、それから3年後、幸村は再び大阪城に入城します。 冬の陣を目前にしての席上、彼は東軍の機先を制す妙案を進言するが、秀頼の近臣たちは、己らの未熟を棚に上げ、幸村のことを「若い」と一蹴。 籠城戦を決議するのです。 この時、徳川方では幸村の実力を認め、信濃10万石を条件に徳川方への参加を誘っていました。 ―理想に殉ずるか、現実に生きるか― 幸村は前者を選択し、残されたわずかな時間を恩義を貫くことに費やしたのです。
籠城戦と決するや幸村は、難攻不落と謳われた巨城・大坂城の唯一の弱点である南方に、出丸の“真田丸”を築き、ついに関東勢を城に寄せつけることはなかったのです。 家康の目的は豊臣家討滅以外の何ものでもないと断じる幸村は、和睦の誓書交換時に家康の虚を衝き、夜の奇襲を仕掛けるべく献策するが、またしても秀頼の近臣たちに聞き容れられなかった。 そして間もなく、夏の陣が勃発します。 すでに大坂城は内外の堀を家康の謀略で埋められ、裸も同然となっていたのです。 幸村は敵の総大将・徳川家康のみを狙って、決死の軍勢をすすめます。 「彼処に現れ、此処に隠れ、火を散じて戦いけり」
―当事務所のすぐ近くに、家康が一命を取りとめたという場所があります。 幸村は、家康を平野におびき出し、地雷を踏ませようと計画します。 家康は幸村の予想通り、地雷を仕掛けた地蔵堂で休息し、かまどで火を焚き始めます。 しかし、家康がほんの少し外に出ている間に地雷は爆発、辛うじて命を落とさずに済んだのです。 ちなみに、地蔵の首は事務所のすぐ近くにある全興寺まで飛んだと言われ、今でも「首なし地蔵」として祭られています。 幸村は逃げまどう家康を再三追いつめましたが、ついには力尽きてこの世を去ったのです。享年49歳。
その奮戦ぶりは、間もなく滅亡しようとする豊臣方の上層部への面当てであったようにも思えますが、今でも悲劇の名将・真田幸村として名を残したのは、他に生き残る道があったにもかかわらず、 「恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか!」 という名言を残し、西軍で孤軍奮闘したからでしょう。
現代のビジネスでも、目先の私利私欲を追っていては、次第に人を惹きつける魅力がなくなり、企業もお客様から慕われなくなります。 「まだ食べれるから」と言って賞味期限切れの食品を廃棄処分せずに横流しをしたりするのは論外ですね(-_-;)