コラム『所長の眼鏡』
吉本新喜劇とモーツァルト2017.04.01
この冬は例年よりも寒かったように感じましたが、やっと春らしくなってきました。 このコラムが皆さんのお手元に届く頃には、桜は満開でしょう。自然と心が躍りますね。世阿弥の言葉に「花は観手(みて)に咲く」という言葉があります。 これは、「花が美しく咲いているから人が美しいと思うのではなく、見ている人が花を美しいと感じているから美しい」という意味です。
観る側は感性を持つことが大切ですし、同時に、世阿弥は猿楽師ですので、観られることを意識し、表現する側の表現力も大切だと、この一言に込めているのかもしれません。 第一印象という言葉があるように、人の外見も他者から観られることで初めて完成するのです。 要するに、自分の良さは人によって判断されるわけです。

座長として吉本新喜劇のお笑いを引っ張るすっちー。 関西であれば知らない人はいないと思いますが、すっちー演じる「すち子」と吉田裕とのギャグがテレビで人気を博し、一躍全国区の人気芸人になっています。
「ドリルすんのかい、せんのかい」とやり合うギャグも、お客さんの反応を見ながら少しずつ変えていってるそうで、彼曰く、「最初から今みたいにウケたわけではなく、ギャグはお客さんと一緒に作るもんです。例えばメーカーのものづくりでは、お客さんの声を聞きながらあっちこっち変えたりしますよね。笑いもビジネスも一緒なんちゃうかな」と言っています。
また、「漫才は目先の笑いを求める。でも新喜劇のお客さんは新喜劇の笑いを求めている。いつ出るか、いつ出るかといった具合で出るもんで、定番かもしれへんけど、師匠たちのギャグなんか、もう古典の域ですわ。それだけを演じてもベタな笑いにしかならなくても、舞台だとめちゃくちゃウケる。それを上手に引き出すように、ここでこう絡んでもらおうとか、あそこでコケてもらおうとか、周りも演じるんです。新喜劇ってね、笑いの幕の内弁当なんです。子どもからお年寄りまで、どの年代も笑わせてこそ新喜劇になると思います」と。 やはり観られる側の表現力が大切です。
「私たちの財産、それは私たちの頭の中にあります。」
これは、モーツァルトの言葉です。モーツァルトは、数々の名曲を作曲したことで知られる、言わずと知れた18世紀の天才作曲家です。 35年間の短い生涯で、あらゆるジャンルの膨大な数の楽曲を世に生み出し、その数900曲に上ります。 そしてその楽曲は、現在に至るまで音楽ファンを魅了し続けています。 モーツァルトといえば天才というイメージがありますが、実は3歳から英才教育を受け続けた努力の人です。 事実、彼は死去する3年前に、「長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは、精力的な思考と、何時間にも及ぶ努力を意味するのです」と語っています。 天才がたゆまぬ努力をし、大成功を収めたのです。
新喜劇とモーツァルト、ここに圧倒的な違いがあります。 そもそも、私たち凡人の頭の中には、財産は詰まっていません。 天才モーツァルトならではの発想と、たった一人で努力し続けられた人の言葉でしょう。 そういう意味では、吉本新喜劇は非常に参考になります。 一人でギャグを考えるだけでなく、お客さんからどう観られているか皆んなで努力し、作り上げていく。 なんばのあの場所には、教えられることが多いです。